Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

17SSに向けて

 今やらなくていつやるんだ、と問われているような気がする。

 それは、自分に今のしかかってきているのが大量の時間であり、それ故に、この生きてきた24年間の集積の整理であったり、それを元にした今からの何十年かの予報図を求められているからだ。だから、自分にとって今興味があることには、背に腹を換えてでも飛び込んでいかなくてはならないという構図だ。

 今のところは、特に大きいことをやり終えていない。自動車教習所に通う話は、資料請求を一度したきりで、住民票を受け取りに行くことがなんともめんどくさく感じられて、そこから話が進んでいない。スピーカーを新調し、部屋の香りを入れ替える為にTHANNのアロマを買いはしたが、スピーカーは音が鳴っているだけで、アロマは香っているだけで、僕には何の変化も起こっていない。今更大型旅行にも行く気にもなれず、ちょっとした旅も、一度タイミングを逃してしまったきり、次の一手は考えられていない。

 でも、近々免許も取りに行くだろうし、旅行にも行くだろうと思う。今やらなくていつやるんだ、という問題があるからだ。

 

 今、手がけようと思っている問題の一つに、作品を創り上げよう、というのがある。今まで2枚のCDを出しているが、片方はクオリティの問題として、満足が行くものでは正直無かったし、もう片方はクオリティには満足しているが、今ならさらに強度のある作品集を創れるし、創るための条件もまとまってきているという実感がある。ざっと挙げるならば、

  1. 楽曲クオリティ
  2. 作品のテーマ、及び説得力
  3. リリースにおけるインフラ

 条件③に関しては、今は個人環境でもデジタルリリースが非常に簡単になっているし、人脈や、自分の立ち位置的にも、自分さえ動けばある程度満足の行く条件が整うだろうと思っている。①については、現時点で自分が満足しているかは別として、最近になってやっとそれなりのクオリティの楽曲が作れるようになった、ということにしている。こればかりは、動いてみないとわからないだろうが、最低限のレベルは達成しているくらいの感覚だ。

 条件②について。これが自分の中で最も重要な問題で、解決すべきポイントであると認識していた。自分の中にある「テーマの不明瞭さ」「一貫性の無さ」は耐え難い問題であったと同時に、それがある種自分のチャームポイントであるとさえ思っていた。だから、作品に一貫するテーマを提唱すると同時に、それに対する説得力を持とうとするのは今まで大変難しかった。

 

 昨年から、ファッションブランドからヒントを得て、シーズン毎に一つずつのテーマを持つようにしていた。2015年の秋冬が「Echoes」、現在の2016年秋冬テーマが「Cuties」というように(因みに、今年の春夏はライブ休止期間が重なり何も考えていなかった)。しかしこれは、外部への提唱というより自分の中での整理という方が正しく、故に表立って説明できる概念というわけでもなかった。

 しかし、自分の作品集、アルバムを作るにあたって、時期で分けただけのようなものをコンパイルすることは無駄だと思った。それなら、SoundCloudに単曲で上げても同じことであり、その方がマーケティング的には小回りが効くからだ。だから、「ひとまとまりで出す意味」についても考える必要があった。

 結果として、今は一つのテーマを見出し、作品を制作している。この結果においては、スピーカーを変えたことによる音の変化がヒントになったし、香りの導入が一つ大きなモチベーションになった。肝心の楽曲は現在着手したばかりで何の完成図も見出だせていないが、今までとは裏腹に、やたらとその完成の未来については自信がある。アルバム"echoes"の制作を止めてしまったように、どこかで頓挫してしまう可能性もあるけれど。

 テーマを考えるきっかけとなったのは毎月PAとして参加しているポコラヂであったり、この前開催されたイベント「大都会と砂丘」での体験も一つ考えるポイントになった。人の表現する音楽と向き合ったり、同じアーティストの思想にぶつかったりすることで、自分の感覚が整理でき、一つの作品に向かう自信が出来た。

 今月末くらいを目処に、少しずつ情報を拡げていきながら、またその情報から自らも影響を受けるような形で作っていきたい。社会に出る前のこのタイミングでないと表現できないことについて、今でないといけないことを、少しずつ昇華していきたい。

完璧な断面

UNCANNYにて10/8開催のMaltine Recordsイベント「大都会」「砂丘」のインタビューをさせていただきました。区切るのがエエのか「大都会と砂丘」でまとめてエエのかどっちなんだ。

uncannyzine.com

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 突然ですがどんどん概念を割り切って整理していくことが今どれほど重要か、みたいなことを最近思っています。映画は全然観ないんだけど映画の感想とか批評とか売上の話みたいなものをすごく多く見るようになって、何かに振り切ることとか、そうでなければ徹底的に脱臭してみてその先を見てみるとか、そういう商品として「コンパイル」することがとても重要になっているのだなあと思うようになった。かつて脱臭したオタクネタはディミトリ・フロム・パリで十分だなんて思ってたのにね。

 日本は映画の売上的にはそこそこ良い感じみたいで、僕の周りの人もこぞってお金を払って映画を観に行くので、きっとそういう文化的に目が肥えてるから、例えば売れ線の中にちょっと自分のドロドロした趣味を入れてみるとかのずる賢い手段にはそう簡単に騙されないみたいな状況になっているのかもしれない。

 ともかく、順番を変えると理解できる、とか分割すれば分かりやすくなる、という手段について考えている。これは、コミュニケーション術みたいなものについて考えなくてはならないほどこの辺りの状況は大きくなっていて、情報を整理した上で、参加者とプレイヤー(もしくは単純にプレイヤーのみ)たちとのコミュニケーションを図らなければならないフェーズに到達している、ということでもあるのかもしれない。トマドさんがポコラヂを本格的に始めたこと(僕もPA、雰囲気係として枠外で参加しています)もまた、そういう点と関係していると思う。

 表面はツルツルの大理石みたいに丹念にカットされていて美しいけれど、その造形に至る過程にフェチズムが透けて見えるみたいな、そういう作品、概念が求められているし、それを受け取るということは、表面的にその形を愛でることでもあるし、その過程に思いを馳せる、ということでもある。しかし、その断面は丹念に研磨され、完璧な手触りに少しでも近づけなくてはいけない。その「完璧さ」に近づくための手段が結果的に多様になっているだけであって、「多様さ」を目的にしたカッティングは最早「商品」としての強度を持たなくなってしまった。規模と名声が広がり、よりグレードを高めることが可能になった以上、考えややり方、表現手段をより練らなくてはならなくなった。

 僕たちは、川沿いに累積する小石を見て、手に取り、キレイな形だな、と思うことも出来れば、その練磨された丸い角から、石を切り取り続ける川の壮大さについて考えることも出来る。薄い石を探して選び、川に向かって思いっきり投げて、水切りをすることだって。僕たちは何かを選ぶことが出来るが、得てしてそれらは「良き石」、良き断面であることが必要とされる。手に取られなければ、ただの背景にある小石に過ぎないから。

 ビルの広がりや砂の微細さから何を思えばいいのか。僕たちは何かを考えているようで、大抵何も考えていない。突如として舞い降りた天啓は、言葉にしてみると陳腐すぎて、発明でもアイデアでも何でもない。そんなものが転がっている世界の中で、何に輝きを見出したって良かったはずなのに、多分知りすぎてしまっているから、その様々な情報の中から、輝きを比較することが出来てしまう。だから人々は、いずれ完璧な断面を求めるようになる。どれも均一に平面で、美しく、なおかつ違いのあるようなもの。サプリメントのように機能的な輝きは、人間の安定と更なる分割の地平に付与していく。

 一方で、どうしても割り切れないものも愛せてしまう。それはとてもバツが悪く、僕たちはお酒を飲んだりしながらその気持ちに騙し騙し付き合っていくことしか出来ない。人々が完璧さを求めてしまう一方で、輝きが無いということの輝きはなんて良いんだろう、なんて根拠の無いことを言う。言いながら、一つ一つの感覚を溶かしていくことで、日々の生活を生きることも出来る。その目で、何かを諦めたような目で、意外と何十年も生きれるのかも知れないね。でもそれで良いのか、って言う人もいるんだよね。

 猪突猛進な熱さも、内包的な駄サイクルも、個人的には今はちょっと違うなという感じがしている。突き抜ける思考と、完璧な断面を目指して、何かやってやろうという気分と、それでも自分の甘さを再確認しながら、一つ一つ答え合わせをしていっている、そんな近況です。

僕たちは誰かの街に住んでいる

 東京に生を受け、24年間もの間やり過ごしてみてはいたが、やっと最近、僕は今まで居場所というものを勘違いしていたのだな、という事に少し気付いた。不自由を覚えることのない、恵まれた空間で過ごしている、と少なくとも心の最外部ぐらいのところでは、そう思っていた。まとまった休みが出来ると、我先に、と遠くの実家へ帰る人の気持ちが理解できていなかった。今は、もし僕にそのような居場所があったとするなら、今すぐ飛んで帰ってみたい、と思う。

 10年後、20年後のことをよく夢想する。ふと、それらの妄想が、今の生活と断絶した、完全な理想であることに気付く。郊外、若しくは地方都市に暮らしている自分。家を買っている自分。よく晴れた休日の昼下がり、妻が買い物に出かけるためにいそいそと準備している後ろ姿を、何気なく眺める自分。近所、車で運転して十数分のところに美味しい定食屋があって、そういうところに車で移動することが増えたので、もはやお酒を飲むようなことは殆どなくなってしまった自分。今自分が欲しているのは、そういう生ぬるさで満たされた退屈そのものだったんだと、なんとなく気付く。

 久々に連日お酒を飲むような会食の機会が重なり、酒で鎮まり回転が遅くなった脳をまた酒で叩き起こすような感触を思い出し、これはちょっと良くないな、と思った。一時期は自分から進んで毎日お酒を飲んでいたという時もあったけど、そもそもビールの一口目のキレが口と脳の感触次第というところもあり、ハマる時はハマる、ダメな時はどれだけ飲んでもダメ、という事実に気付いたというのもあって、少し考え方も変わったように思う。思っていたことと考えていたことが口先を無尽蔵に駆け巡り、その時は本心で言ったことでも大抵忘れてしまう、というタイプの人間なので、アルコールに支配された時自分が本当に何を言い出すのか、ということがとても恐ろしい。今のところは、胃の気持ち悪さと眠気がそれに勝ち、大きな失態を犯したことは多分無いのだけれど。

 何か刺激を受けて、感情が「楽しくなる」、という反応は、自分の場合何を以て行われているのか、ということについて考えることが多い。それが時にはお酒であるということもあるが、圧倒的に、人と話すことそのものとか、何か刺激的な作品に出会えた時、つまりは「何かを語らずにはいられない」という状況そのものが僕にとっては「楽しさ」なのではないか、と考えられる。どうしようもないこと、あることないこと、適当なことをこうやって書き綴るのは、たとえ見られている保証が無くとも気持ちが良い。先輩から、「もっと色々書いてみたほうがいい」と先日言われて、僕はその通りだと思い、今はその通りにしている。日記を書くのは苦手なので、ちょうど『自省録』のようなテンションで。

 短期的な利益の追求と、長期的な美的感覚の確立を、僕はちょっとした対立概念として見ているきらいがある。短期的に良い作品と、長期的に残る作品というものが違う構造を持っているということが多い、というように。ただ、どちらも人間の考え方に深く作用する可能性を持っているし、残る残らないという感覚自体、どちらが良いというものでも無いのかもしれない。ここで深く論じるのは面倒くさいし、自分の中でも考えがまとまっていないので、また何かの機会で。

 松屋の「鶏のバター醤油炒め」が安定していて、美味しかった。