Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

『see you, again』と、存在する苦悩

 少し前のこと、2013年初頭、東京のインディースシーンで活動していたバンド・Pegmapが解散を発表した。
2012年7月に、約5年ぶりのアルバム『see you, again』をリリースした、その半年後の出来事だった。
10年足らずというそこそこ長い活動の中で、リリースされたのは、このアルバムを含めた3作と、1作のEPだけであったが、その少ない作品の中に詰め込まれたのは、歌をつくるということのリアルと、バンドとして活動をすることへの葛藤そのものであった。
身を削り、仕事を絞り、人の心の負の部分にフォーカスを当て、増幅させ、歌をうたいつづけるという行為は、並大抵の精神力では到底もたないだろうというのは想像できる。
だから、このバンドの解散の報せを聞いて、僕は寂しがることよりも、まずは、少し安心することが出来たのだった。

 Pegmapのボーカルであり、作詞曲を担当していた山本章人は、バンドのホームページからリンクされているブログに、不定期に文章を公開し続けていた。
バンド練習のこと。バイトを辞めたこと。彼女のこと。新しく仕事を始めたこと。インディースならではの生々しい日々の記録が、容赦なく、不恰好なまま記されていた。
そして、ホームページには、彼の書いた歌詞も多く掲載されていて、それも並行して読んでみると、彼の考えていたことが、彼の日常にどれだけリンクしているのかを知ることが出来た。それももう、怖いくらいに、だった。
本当に、それは新譜が発売されてタワレコ巡りの写真を嬉々としてツイッターにアップしているようなアーティストの比ではなく、痛々しいほどにまで伝わってくるのだった。
今ではバンドのホームページは無くなってしまったが、ブログはまだ残っているので、気になる人は探してみても良いと思う。

 高校生時代、僕がこのバンドにコミットしたのは、こういった日常性と歌詞における思考が当時の僕にしっくりと来たからなのだと思う(そしてそれは、日本の同じような年代の、同じようなスクールカーストに存在した人達がインディーズシーンに傾倒しはじめる理由でもあると思う)。
腐りながら、微妙なバランスに立って暮らしていた高校時代に、Pegmapの歌は痛いくらいに響いてきて、聞けば今でも当時の感慨を同じように思い出す(というより、当時の感情を再演算して同じ思考に終着する)ことが出来る。

「ガラス戸を蹴り破って 汚い物は放り出したって
 無駄さ 変われないぜ」(Pegmap / 渦 - 2nd Album『see you』[2007])

「後退なんてナンセンスなんで
 敗北者に勲章を」(Pegmap / ドラマ - 1st Album『Have a nice day』[2006])

  歌詞だけ引っ張り出せばその当時特有の青さそのものでしかないんだけど、それを今でもどうしてもバカに出来ないのは、彼らがこれを産み出すためにどれだけの苦しみを味わったかをなんとなく理解しているからであり、そういった思考は今でも僕の精神に影を落としている。
しかし、それは、単純に僕が「くすぶって腐って思考実験ばかり繰り返していた高校時代」を通過していたから出来たことであり、また、彼らの私生活を自らの思想に上手くインストールして都合よく解釈出来たから、に過ぎなかった。
どれだけ必死になって作品を産み落としたところで、その歌詞に書かれた思考は高校生時代の僕のような人間に都合よく再解釈されるのが精々いいところであり、「書かれている」ということ、その理由そのものに触る人は本当に少数である。
そもそも僕がPegmapを知ったのは2ndアルバムリリース後の2008〜09年辺りだったし、当時リアルタイムに彼らのことを認識しているわけではなかった。それでも、彼らの最初で最後のEP『come back ep』のリリースがアナウンスされ、ラスト・アルバム『see you, again』が発売されるまでには、彼らをより深く認識するに充分な時間があった。

 『see you, again』は明らかに気色が違った。人々の負の思考の集合値・平均値ではなく、ひとりの人間・山本章人としての叫びが痛切に記録されていた。
歌を創りあげる上で必要となる思考という行為(言うまでもなく、大半の歌詞は独りでに出来上がるものではなく、考え、それを言葉にし、リズムを整えるという作業が否応なく存在する)に向き合い続けること、それは自身との勝負であり、自分が産み出す大量の仮装存在との対話であった。このアルバムで歌われているのは、それを通過した、もっと私的で、内向的なものである。

 MVになった一曲目「タコ」は「お願い僕を知って」と歌う自分自身を「うるせえなこのタコ」と一蹴する、痛烈な歌である。
途中の歌詞にも「つまらないプライド守りたいんでしょう」「這いずりまわったってそりゃエゴ」と、何重にも周到に罠を張るような攻撃的な言葉が密集し続けるが、それらは全て「自虐行為、自虐をすることで得られる優越感、そしてまたそれを叩くという自虐…」が無限にループし続ける構造を描いているもの、であると解釈できる。
思えば、このバンドのアルバムは全てこういった構造の曲で始まっており、1st収録の「ねーママ」には「金で買う ガキの股 見過ごす俺が歌ってんだ/命に手 差し伸べて 逃げ出す俺が歌ってんだ」という歌詞が登場するし、2ndの「小さな世界」にも「4〜5年も経って何の進歩もねぇ/うるせぇ!/黙って行進してろ」と、当時の心境をチラつかせるような言葉が歌われている。
しかし、以前までのそれは、あくまでもPegmapというバンドに山本という人間の「個人」を組み込むための要素であった。言い換えれば、「リスナーも演奏者も、同じ人間であり、同じ思考を続けている」という意思表現を行なって、続く楽曲の世界観をより深く体験させるための導入のようなものであった。
とはいえ、『see you, again』でも「タコ」から、『come back ep』にアコースティック・バージョンが収録されていた3曲目「鏡」までは、今までのように、一部の人間が何となく感じている共通項や記憶を引きずり出して突く楽曲で構成されていた(「鏡」に関しては記述に非常に私的な部分がチラついているが)。

 M-4「やや無情」から舞台は仮想空間から、Pegmapのボーカル・山本が住むアパートと、それに地続きな日常へと移る。

「見慣れてしまったな そういうモンかな
 何を描いても 心に届かない」(Pegmap / やや無常)

 「何を描いても心に届かない」という言葉は凄く単純なものだが、これこそがアルバムのリリースに5年かかった理由であり、リリースからわずか半年でこのバンドが解散してしまった理由でもある。
彼は、バンドで大成する夢に向かって、彼自身の思考と感情をフルに使って今まで歌詞を書いてきた。だけどそれも限界だった。もはや何を書いた所で今までの様なリアリティが襲ってこない。そして、バンドマンだって、歌詞を書くことだって、結局は「みんなの感情を代弁する仕事」であるに過ぎないということに気付く。結局自分はバンドを「仕事」として、自分の全うすべき任務だと感じて、アクターとして演じ続ける事が出来たのだろうか? それともただ単にどこかで「ロックスターはカッコいいから」、そういう理由だけで自分を正当化して、堕落した生活をしてこなかっただろうか?
恐らく、こういう自問の末辿り着いた答えが「やや無常」という曲なのだろう。音楽は好きだし、これからも続けて行きたいという想いは残っている。だけど、昔みたいなギラギラしたものは果たして残っているのか?そういった無常がこの歌詞には刷り込まれていて、彼自身の叫び、諦めが重たく感じられる。こういった理想と現実の苦悩は、どういった活動に於いても大なり小なり発生するものである。

 続いての楽曲「地獄」も、自分がバンドを選択した事とその重み、バンドマンとして歌を生産する苦しみを的確に歌った一曲である。好きで選んだことだとしても、当然苦悩は発生する。だけど「好きで選んだ」、その理由だけで苦悩は一蹴されてしまい、理解されない。

 基本的に、ものを作る上で「作ることそのものの苦悩」にフォーカスを当てることは無いし、タブー視されている部分も少なからず存在する。つまり、Pegmapとして「作ることそのものの苦労」「Pegmapとして存在する苦悩」に注目した楽曲を発表したことは、バンド自身の限界を示したものであり、さながら船の乗客に「この船はまもなく沈みます」とアナウンスする船長のようなものである。それでもこの作品がリリースされたのは、我々のようなリスナーが「それでも構わない」といつまでも待ち続けていた結果であり、解散という出来事も、もしかしたら多くのファンにとって想定できていたことだろうと想像できる。

 人間はそれぞれ違う思想を持っていて、違う考えの元、それぞれの最大公約数で納得できた結果団体が生まれるのであり、例えば、全く違った思考が発生してしまった場合は、それを取り込む妥協策を提案する等、騙し騙しで続けていく他はない。Pegmapの場合、山本の書く歌詞は、人の心に対する深い省察や割り切れない感情を記すことで成立していたし、それを共有するバンドメンバーの元、ひとまとまりの演奏が成されていた。
長い年月は、次第に人々をまとめていくか、そうでなければバラバラにしていくものであり、彼らもいつしか足が揃わなくなった。歌詞を書くこと自体にも苦悩が発生し、次第に糸は解れはじめた。

 M-6「BORED!」で歌われるカラッとした諦め、「嫌ならやめればいい」という言葉すら、冗談っぽく笑いながら言っているように見えて、長い時間の熟考の結果生み出された後に引けない言葉なのだろう、という重みが感じられる。その理由は、アルバムリリースにかかった5年という歳月が説明してくれる。

 思想というのは、悲しいながらも、個人、もしくは集団の死によって完結されるものである。
人間の感情や意思というのは絶えず揺れ動くものであり、その一つ一つをTwitterやブログというピンで固定したとしても、しばらく経てばグチャグチャになってしまっている、ということも珍しくはない。
そして、彼らは、感情意思のブレに悩み、結果、解散という形を取ることで、それに終止符を打ったのだった。

 かくして、2003年のPegmap結成から、『have a nice day』『see you』『come back ep』そして『see you, again』まで続いた思想の旅が終結した。延期されていたラストライブも、先月無事に終了した。
だからこそ今、こういう形で語ることが出来るし、今改めて、当時の思い出を感慨深く思い出す事に対しても大きな理由付けになるだろう。

 Pegmapが僕の青春時代に投げかけたのは、苦悩する自分の肯定だった。
山本が「俺だってそうなんだ」と差し伸べた手は、彼が表現した日常性によって立体化され、それに後押しされるように、そのメロディーに叫び、歌詞に陶酔した。
しかし、僕自身の成長と共に、いつしかその音楽は一つ膜が張られたような、ラジカセを通して音楽を聞いているような、青春の追憶になっていた。
僕も大学生となり、色々な物を昔より知るようになった。そのタイミングで発表された『see you, again』は、Pegmapという存在の種明かしであり、それは同時に、自分がかつてすがっていた存在すら、移り変わってしまい、崩れ去ってしまうものなのだ、という大きなテーマを僕に投げかけてきたのであった。
もしも彼らがバンドとして続けていく事を選んだとするならば、思考停止をすることで寿命をもっと先延ばしにすることも出来ただろう。
しかし、それをしなかったのは、形骸化したバンドという存在より、創作する媒体としての説得力を選んだ結果であり、だからこそ、『see you, again』において「覚悟がないなら、こうはなるなよ」と、自らの苦悩をひけらかす事で訴えたのであった。
(そもそも『have a nice day』や『see you』等、どちらかというと「別れ」を連想させるアルバムタイトルが多かったのも、ちょっとしたジョークであると同時に、表現する媒体としての「(表現できなくなれば)いつだってさよならを言う準備はできている」という意思の現れだったのかもしれない)

 最後に、2ndアルバム『see you』から、Pegmap結成以前から構想があったという「ワルツ」を紹介して締めとする。
諦めに対する苦悩、という一つの視点は、結局最初から最後まで変わることのない、Pegmapの、そして山本の大事な支柱の一つだった。
僕たちは、どうだろうか。諦めを諦めとして受け止めるのか、それを跳ね除けるのか。それとも、それにすら気付かず生きているのか。
もしも気付いていないとするのなら、それほど幸せなことはきっと無いのだろうけれど。