Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

「形式」を扱う

 最近、スクワットを1日5回だけするようになった。
5回だけである。
「1日5回のスクワットで健康になれる」というのはさすがに針小棒大なものの言い方だろうし、別に1日5回だけに甘んじて健康になろうっていうほど自分の体のことを舐めてかかっているわけではない(舐めてかかっているかも)。

 というのは、以下の記事を読んだからである。

www.lifehacker.jp

 僕は「習慣化」という行為がとても苦手で、今のところ生活のルーティンとして行えている習慣は一つもない、と言っていい。朝起きたら食事をする、が精一杯である(起きる時間も朝というより朝過ぎ、昼前という体たらくだ)。
しかし、上記の記事を読んで分析をするに、自分と習慣化の戦いについてちょっと大局的に捉えすぎているのかもな、と感じた。

 もし、結果を重視してスクワットを行うのであれば1日50回でもなんぼでもやるのがいいと思う。
実際、50回のスクワットに挑戦した時もあった。しかし案の定というか、1日すらも続かなかった。
「30回でいいか…」「10回でいいか…」「明日やればいいか…」となるのである。分かりやすい。

 実際、習慣というのは、もっと自然で、シンプルなものでいいのだと思う。
家に帰ったら手洗いうがいをする。寝る前には風呂に入る。歯は毎日磨く。などなど。
個人的に、スクワットを5回するというのは、歯を毎日磨くという行為以下の精神的障壁しかない。これならできる。
スクワットをするのが当たり前になってから、回数はなんぼでも増やせばいいのだ、と思い至り、スクワットを1日5回だけやるルールを定めたのである。

 ところで、習慣という言葉は、「長い間繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと。」という意味らしい。
このブログを書くことについては、習慣というよりも、必要に駆られ、重い腰をあげて書いているという意味合いの方が近いので、習慣にはなっていない。おそらく、今後習慣になる気配もない。
別の意味には、「その国やその地方の人々のあいだで、普通に行われる物事のやり方。社会的なしきたり。ならわし。慣習。」とあるらしい。なるほどなるほど?

 どうやら、習慣には、「それ自体の意味が剥奪されて、ルーティンの中に封じ込められた行為」という側面があるのかな? と思ったりした。

 おそらく僕たちは、ある意味賢くて、例えば意味のない労働をさせられた時には、「どうしてこんなことをやっているのか?」ということに対して想いをめぐらせたり、もう少し先に行って「きっとこれにはこういう意味があるのだ」と自分を納得させることが出来る。たいていの動物にはそれができないので、パブロフの犬的に脊髄反射として行為を馴染ませる必要がある。
しかし人間は、その頭脳に対してバランスを持った心を持っているとは限らないので、本質的に意味のない労働を強制され、それを長く行っているとその先に深淵を見ることになる。人間の自我の深みだ。

 生物の目標は、根源的に言うとすれば「自らの種を後世に渡り継がせる」というものである。そのために生き、社会に揉まれながら生活をし、配偶者を求める。
それとは別に、人間には、人生としての目標がある。理性が培った、自分の人生を歩くための主旋律である。はっきりとしたメロディーとして現れることは無くとも、人間主体の考え、環境や国籍、体格、健康さなどの枠組みでそれらは無意識のうちにインストールされているように思う。
だから、その二つの目標に適合しない労働や環境に立たされた時、人間はうろたえるのである。
それに負けないために、頭脳で深い関連性を見出し、心で行為そのものの魅力を味わおうと尽力する。

 しかし、人間はそれほど強いものばかりではない。頭脳と心のどちらかが壊れないまでも、バランスが崩れるだけで大分危ういのだ。

 そこに、「習慣」という考えがインストールされる。
「習慣」とは、天然素材から抽出した粉末で作ったサプリメントのような働きをし、生活に自明的な意味を導入してくれる。
風呂に入らなかったからといって死ぬわけではない。しかし、風呂に入るという行為=体を清潔に保つ行為によって、社会の枠の中で生存する十分条件のうち、ほんのわずかなひとパーツを拾うことができるのである。
文字通り、「習慣」とは健康な人間を保つためのサプリメントなのである。
「習慣」を寄せ集めることで「生活様式」がうまれ、「形式」になるのである。

 僕たちは、自分を「習慣」を寄せ集めた「形式」に当てはまることで、自分たちを納得させ、社会の一員としての健康な生活が出来る。一般的な「形式」を認めない少数派の人たちにも、少数なりの「形式」があって、そうでなければ、おそらくその生活は不全であろう。

 しかし、「習慣」という言葉を追いすぎると、「木を見て森を見ない」タイプの生活に陥ってしまう危険がある。それに気づかないうちはいいが、何かしらの不慮の事態が発生した時、その人の生活は完膚なきまでに破壊され、取り戻す術も無くしてしまうおそれがある。
あくまでも滅多にない危険性だが、「習慣」とは結局効果を抽出したサプリメントでしかないことを意識することが大事だと思う。
「習慣」の持つ力を見極め、その先にある意味を理解した上で、自分を社会の一員として納得させるための「習慣化」はとても強く、人間として気高き行為だと感じる。
意識された習慣に寄せ集められた人間の生活は、形骸化した「形式」を超え、さらに人間らしい生活が…と書いたところまでで、なんか自己啓発っぽくなってきたのでなんか嫌になってしまった。自分の考えを肯定するだけのために何文字書いてるんだ。

 言えるのは、結局どこかで、僕は「形式」を逸脱しないと気が済まない人間なのだ、ということだけである。
習慣化への道は遠い。