Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

何者でもないという幸福について

先週末、ライブ遠征で宮崎に行った。
その週は、宮崎としても異例と言っていい程暖かく、比較的過ごしやすい気候だったように思う。

宮崎の人々は暖かく、町中は穏やかで、食事はとても美味しかった。
商店街の中にも、宮崎の時間はとても独特に流れていて、ソリッドなアパレルショップですらも、ゆっくりと時間の中にたゆたっていた。

僕は、流れ流れて、今まで音楽をやっている。
恐らく、音楽に手を出すことが無ければ、全国をこうも移動することも無かっただろうし、そこにある何かを味わうような暇も見出すことが出来なかったと思う。というか、そもそも、今このように生きれていたのかも危うい。救われた人間だと言ってしまうことは、どうにも憚られるが。

僕はせっかちな人間だなあ、と思うことが多くなった。
というか、せっかちな自分というものに薄々気付いていて、恥ずかしくて隠していたのだが、その感覚を手にとって眺める機会が増えた。

せっかちに、病理的に、自分は何かを為し得るのではないかと、盲目的に思っていた。
まとわりつく生き辛さ、思考回路、吃音が、自分の成り立ちについてそう思わせてしまうのであった。
長所を疑い、短所から潰そうとし、長期的なものの見方も出来なかった。
この歳になってこういうことに向き合うこと自体辛いけれど、人にとって当たり前のことがどうして出来ないのだろう、というやつである。
そういった性質そのものが自分自身であり、必要なものであるというのは理解できても、根底の生き辛さだけはどうしても残り続けるから、人に頼って欲求を得ることで、どうにか自分の塗り固めたエゴを誇示することで生き残ってこれたのだと思う。
23歳の男であるのに、なんとも恥ずかしい。

とはいえ最近は、敵を作ってもいい、少しは自発的に幸せになれたらいい、と漸く思えるようになった。
色々な人と話し、色々な場所に行き、色々な体験をして、今度は自分の番なのかもしれない、とやっと気付き始めた。
東京にずっと居ると、世間のスピードが速すぎる事にも気付けない、だから、自分を見失うまま生きることは当たり前だとなんとなく思っていた。
だけど、もっとゆったりと流れている時間もあるのだ。

それでも、何者でも無いということに気付くにはやや遅すぎたのかもしれないな、と思う。
やや自嘲気味に、腑に落ちるまで繰り返す。