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Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

コミュニケーションの残骸

まほう

まほう

「実は、吃音を持っていて、昔はすごい酷かったんだよ」と言うと、「そうなんだ」と驚かれる。
その後は、「だけど違和感もないし、大丈夫だと思うよ?」と、続けて言われることがだいたいである。

別に相手方に不快を感じている訳ではない。
それどころか、そういう風に気遣って戴ける、という嬉しさもある。加えて、申し訳無さもある。

僕の吃音症は、記憶が正しければ、おそらく後天的なものだろうと考えられる。
幼少期、どもりを持っている友達が居て、よく遊んでいた。
今思えばとても残酷な事だが、悪気なく、彼の口調を真似て遊んでいた。
気付いた時には、そのどもりが、僕の癖になっていた。
また少し成長すると、どもりは薄れ、「言葉が喉の奥に突っかかり発音できない」、という症状だけが残った。

吃音症状と向き合うということは、コミュニケーションの難しさ、そして、それ故の奥深さと向き合うということである、と思う。
コミュニケーションは、単語そのものだけでなく、抑揚や速度、間によっても形成され、時には表情、環境等、様々な広範な要素によって成り立つ。
吃音が制限するものは、上述した要素のうち4つ、単語、抑揚、速度、間、である。
例えば、固有名詞を会話の中に挟む時、ワンテンポ遅れてしまう。もしくは、どもり気味に噛んでしまう。
この予期せぬ脱線事故は、コミュニケーションにおいて想定していた目標から会話の軸をズラしてしまうのである。

また、もう一つ悲しいことは、その一瞬のコミュニケーションにおいてそこまでの失敗を気にしているのは自分だけ、ということである。

吃音によって言葉が出ない時の喉の苦しみは、なんとも言い表せない。
口と喉は準備が出来ているのに、脳が発音をストップさせている状態。
時にはど忘れしたふりをして、「あの〜…」を挟んで落ち着いて発音する。
そのまま発音することが出来ず、「すいません、忘れちゃいました」と嘘を吐いたことも何度かあった。
勿論、それでも会話は円滑に進む。そういうものとして単なるコミュニケーションは進んでいくからだ。
つまり、そこに想定していたコミュニケーションの消失を惜しむのは自分だけなのである。

だから、吃音を持つ人にとって、「違和感が無い」というのは、「克服」という目標の達成と同時に、それとは比べ物にならない大量の「存在したはずのコミュニケーション」を消失した結果なのである。

「言葉が出ない」ということだけでもこれだけの障壁が(ここに書いた以上の事は当然ある。性格形成にも強く影響しているし、勿論こんな文章をわざわざ書いてしまうということも)あるのに、色々な障害やハンディキャップを、果たして分かったつもりで解釈することが出来るのか、と思う。
普通に生きている人でさえ、本人が意識すらしていない沢山の障壁が目の前にあるのかもしれない、と。

本当は、分かったつもりで解釈してもいいし、思ったことは言い切ればいいのだと思う。
だけど、自分自身は、今まで殺してきたコミュニケーションの残骸を供養するつもりで、沢山の事象や存在に対する定義を増やし続けてしまう。
考え過ぎだと言われる由縁である。

楽しいことを楽しいと言い、美味しいものに美味しいと笑い、疲れたら疲れたと言う。
いつの間にか、なんでそんなことが出来なくなってしまったのか、ということを考えていたら、はじめからそういうつもりは無かったんじゃないかという気がして、怖くなる。