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Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

「ぐるぐる温泉」ってインターネット黎明期の共通言語だと思ってた

メモみたいなもんです。今日のは。

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近所のコンビニが潰れても不便になったという以外にそれが何やらと感慨を与えてはくれないのは、コンビニという存在は1つ消えたところで代替可能なものであるからだと思う。

最近は、少し遠くのコンビニまで歩くことを余儀なくされている。散歩と言うにはやや足りない距離で、ギリギリ利便性という定義を失わない遠さで。

コンビニは幾ら多くても基本的には困らない。客足の増減とか商品の入れ替えなどというのはあっち側が勝手に気にしたら良い。

全てが画一的に、なべて配置されている空間。

その空間という感覚すら、それを気にするのはせいぜい行ったことのないコンビニに入った時くらいのものだろう。

僕たちは大体、普段行くコンビニのどこに何が陳列されているか知っている。

言い換えるなら、近所のコンビニに陳列されている普段飲む清涼飲料水は、ちょっと距離の遠のいた僕たちの手足のようなものになるのだろうか。

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僕たちは色んな道具で手足を拡張してきた。

手。石器。ハサミ。刀。ペン。カバン。その他の存在する諸々。

足。靴。馬。列車。バイク。電車。その他の屹立して順番待ちを続ける様々。

多分人間って自分の五感で受け取ったものしか理解できないように出来てるんだけど、ちょっとした距離感の道具で拡張して受け取った感覚は、どうにか誤魔化して把握できるようにはなっているような気はする。

逆に言うと、五感で把握できていない感覚のものは、受け取り続けたら多分すごい勢いで疲れるんだと思う。

道具と人間の距離感、それをどこまで許容するか、それが現代の生き方においてとても重要なものなんじゃないかって、何となく感じることがある。

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人間の日常をスマホが窓口になってインターネットが管理している今の形を視覚に表すとしたらどんな感じなのか分からないでいる。

インターネットに触り始めた当初、僕にとって、それは場所のようなものに感じられていた。

そしてそれは、多分共通の感覚として受け取られているものだと思う。例えばチャット部屋。ゲーム部屋。

もっと言うなら電脳空間かね。マトリックスみたいな、自分の分身がインターネット上にアップロードされて、サービスを通じて動くような。

だけど、去年くらいから、インターネットが第二の場所として機能しているっていう考え方はもはや古いのかもしれないって思うようになった。

YouTube黎明期、ニコニコ動画の走りの時期なんていうのは、インターネットというのは匿名と実名のようなものが綯い交ぜになった、少なくとも現実とは切り離された、リンクされているだけの空間のように感じられていた。大体10年前とかかな。

Twitterが出ても、少なくとも国内ではまだ切り離されていたものだった。Facebook辺りで大体繋がるようになってきた。

Twitterでの交友パターンが、Facebookで実名として浮き彫りになってあっちから提示されるようになって、「知り合いかも?」なんて機能で言われるようになってから、これは完全に空気が変わったなと思うようになった。

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では、インターネットは、道具(ツール)として扱うべきなのか、それとも場所(スペース)として認識すべきなのか。

奥行きがあるものなのか、そういった感覚とは無縁になってしまったと考えても良いのだろうか。

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ある昼間、近所のコンビニだった場所に、ゆっくりと老夫婦が入っていった。

夫の方は、車いすに座っていた。

妻は、それを後ろから押していた。

そこのコンビニで、その奥さんから近況を心配されながら、のり弁当をレジ受付してもらったことを思い出す。

夫の方は、杖を突きながら時折コンビニの中を巡回していた。

コンビニにも、無機質な空間にも、人間の匂いは香る。

閉店から2ヶ月経っても、その跡地にはまだ何も入っていない。