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Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

生活の耐えられない曖昧さ

 おばんです。どうにかこうにかです。

 UNCANNYにてSeihoさんの新作"Collapse"についてのレビューを書きましたよ。レビューって誰が求めてるんでしょうね。知らんですが。いい作品聴いたくらいでこんなひん曲がった文章を書いてしまう人の意見よりも自分が良いと思ったかどうかを大事にするが宜しいです。

uncannyzine.com

 レビュー内で言及した平田オリザさんといえば、駒場アゴラ劇場が僕の通っていた高校のすぐ近くにありまして、その時実際演劇部に所属していたのでそこで地区大会などで劇をやらせていただいたこともある現場、なのですが。規模的にはそれほど大きいとも言えない、ちょっとした小劇場みたいな場所で御座いました。謎の安心感があるあたたかな場所だった。閑話休題

 平田オリザ氏の話から着想を得た人間とアンドロイドの境界線という話、あとSeihoさんの数々のインタビューを読み思ったこと、境界線というのがそれぞれ一体何をどう分類するのかが大事なのではなく、そもそも分類する線というのは常に揺れ動くように存在しているものだと認識することが大事なんだったりと思ったり。更に言えば、その境界線がゆらゆらと揺れ動く状態そのものが人間性なんじゃないかな、と上記のレビューを書きながら思ったりしました。平田オリザさんの言及していた「心とは人間同士の関係の中にある」という言葉に類する意味で。また、そういった意味で僕の書いたレビューというのは単なる僕の感想というのではなくもっと広く関係性の中に波及するような批評であるべきなんだけど、自分の実力不足でその辺りの展開を有機的に結びつけることが出来なかったのでちょっと反省しています。

 とまあ全ての問題は対人問題であるともよく言ったもので、ある問題は対象を諦めることでそもそも問題ですら無くなったり、またその先あるであろう関係を無視することで今の心がずっと楽になったり。そうなると捨て捨てで生きるのが一番楽そうだけどもそんなんは生きてる限り続いてくものだから対症療法でやっていくのがどうやらよろしそうなんですね。そうやってる人たちはなんだか楽しそうだし。

 今日友達と喋ったことから。大人になるというのは、気持ちの起伏を出来る限りフラットにするということではなく、その起伏を処理する受け皿を自ら用意して、自分が責任を負う形で逐一片付けていくということなのかもしれないなとか。これが自分の怒りや悲しみ、行動に責任を負うということなのか。まあ難しいことだよね。

 感情も気持ちも延々と旅を続けるもので、果てない苦しみも楽しみも無く、それらはただ最終的にプラマイゼロの終に向かうために、延々と起伏を続けるのだなあと。その起伏を処理するための自分の生活を探し、それを実行していく。そんなのが、今目指すべき境地なのだろうな、とちょっと思いました。

 とはいえ、それとは反対側にある曖昧な意味のない生活というのも、それはそれで愛おしいのは、僕自身が全ての行動に意識を見出したいが故に、あらゆる確実な目標へ向かう行為が苦手だったりするからなのだろうなあ。人が掲げる目標なんていうのは社会や世界に全く影響を及ぼさないものばかりなのだから、まあ勝手にすればいいのだというのも分かっているけれど。自分の言葉の曖昧さに嫌気がさします今日も。おやすみなさいませ。