Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

僕たちは誰かの街に住んでいる

 東京に生を受け、24年間もの間やり過ごしてみてはいたが、やっと最近、僕は今まで居場所というものを勘違いしていたのだな、という事に少し気付いた。不自由を覚えることのない、恵まれた空間で過ごしている、と少なくとも心の最外部ぐらいのところでは、そう思っていた。まとまった休みが出来ると、我先に、と遠くの実家へ帰る人の気持ちが理解できていなかった。今は、もし僕にそのような居場所があったとするなら、今すぐ飛んで帰ってみたい、と思う。

 10年後、20年後のことをよく夢想する。ふと、それらの妄想が、今の生活と断絶した、完全な理想であることに気付く。郊外、若しくは地方都市に暮らしている自分。家を買っている自分。よく晴れた休日の昼下がり、妻が買い物に出かけるためにいそいそと準備している後ろ姿を、何気なく眺める自分。近所、車で運転して十数分のところに美味しい定食屋があって、そういうところに車で移動することが増えたので、もはやお酒を飲むようなことは殆どなくなってしまった自分。今自分が欲しているのは、そういう生ぬるさで満たされた退屈そのものだったんだと、なんとなく気付く。

 久々に連日お酒を飲むような会食の機会が重なり、酒で鎮まり回転が遅くなった脳をまた酒で叩き起こすような感触を思い出し、これはちょっと良くないな、と思った。一時期は自分から進んで毎日お酒を飲んでいたという時もあったけど、そもそもビールの一口目のキレが口と脳の感触次第というところもあり、ハマる時はハマる、ダメな時はどれだけ飲んでもダメ、という事実に気付いたというのもあって、少し考え方も変わったように思う。思っていたことと考えていたことが口先を無尽蔵に駆け巡り、その時は本心で言ったことでも大抵忘れてしまう、というタイプの人間なので、アルコールに支配された時自分が本当に何を言い出すのか、ということがとても恐ろしい。今のところは、胃の気持ち悪さと眠気がそれに勝ち、大きな失態を犯したことは多分無いのだけれど。

 何か刺激を受けて、感情が「楽しくなる」、という反応は、自分の場合何を以て行われているのか、ということについて考えることが多い。それが時にはお酒であるということもあるが、圧倒的に、人と話すことそのものとか、何か刺激的な作品に出会えた時、つまりは「何かを語らずにはいられない」という状況そのものが僕にとっては「楽しさ」なのではないか、と考えられる。どうしようもないこと、あることないこと、適当なことをこうやって書き綴るのは、たとえ見られている保証が無くとも気持ちが良い。先輩から、「もっと色々書いてみたほうがいい」と先日言われて、僕はその通りだと思い、今はその通りにしている。日記を書くのは苦手なので、ちょうど『自省録』のようなテンションで。

 短期的な利益の追求と、長期的な美的感覚の確立を、僕はちょっとした対立概念として見ているきらいがある。短期的に良い作品と、長期的に残る作品というものが違う構造を持っているということが多い、というように。ただ、どちらも人間の考え方に深く作用する可能性を持っているし、残る残らないという感覚自体、どちらが良いというものでも無いのかもしれない。ここで深く論じるのは面倒くさいし、自分の中でも考えがまとまっていないので、また何かの機会で。

 松屋の「鶏のバター醤油炒め」が安定していて、美味しかった。