Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

完璧な断面

UNCANNYにて10/8開催のMaltine Recordsイベント「大都会」「砂丘」のインタビューをさせていただきました。区切るのがエエのか「大都会と砂丘」でまとめてエエのかどっちなんだ。

uncannyzine.com

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 突然ですがどんどん概念を割り切って整理していくことが今どれほど重要か、みたいなことを最近思っています。映画は全然観ないんだけど映画の感想とか批評とか売上の話みたいなものをすごく多く見るようになって、何かに振り切ることとか、そうでなければ徹底的に脱臭してみてその先を見てみるとか、そういう商品として「コンパイル」することがとても重要になっているのだなあと思うようになった。かつて脱臭したオタクネタはディミトリ・フロム・パリで十分だなんて思ってたのにね。

 日本は映画の売上的にはそこそこ良い感じみたいで、僕の周りの人もこぞってお金を払って映画を観に行くので、きっとそういう文化的に目が肥えてるから、例えば売れ線の中にちょっと自分のドロドロした趣味を入れてみるとかのずる賢い手段にはそう簡単に騙されないみたいな状況になっているのかもしれない。

 ともかく、順番を変えると理解できる、とか分割すれば分かりやすくなる、という手段について考えている。これは、コミュニケーション術みたいなものについて考えなくてはならないほどこの辺りの状況は大きくなっていて、情報を整理した上で、参加者とプレイヤー(もしくは単純にプレイヤーのみ)たちとのコミュニケーションを図らなければならないフェーズに到達している、ということでもあるのかもしれない。トマドさんがポコラヂを本格的に始めたこと(僕もPA、雰囲気係として枠外で参加しています)もまた、そういう点と関係していると思う。

 表面はツルツルの大理石みたいに丹念にカットされていて美しいけれど、その造形に至る過程にフェチズムが透けて見えるみたいな、そういう作品、概念が求められているし、それを受け取るということは、表面的にその形を愛でることでもあるし、その過程に思いを馳せる、ということでもある。しかし、その断面は丹念に研磨され、完璧な手触りに少しでも近づけなくてはいけない。その「完璧さ」に近づくための手段が結果的に多様になっているだけであって、「多様さ」を目的にしたカッティングは最早「商品」としての強度を持たなくなってしまった。規模と名声が広がり、よりグレードを高めることが可能になった以上、考えややり方、表現手段をより練らなくてはならなくなった。

 僕たちは、川沿いに累積する小石を見て、手に取り、キレイな形だな、と思うことも出来れば、その練磨された丸い角から、石を切り取り続ける川の壮大さについて考えることも出来る。薄い石を探して選び、川に向かって思いっきり投げて、水切りをすることだって。僕たちは何かを選ぶことが出来るが、得てしてそれらは「良き石」、良き断面であることが必要とされる。手に取られなければ、ただの背景にある小石に過ぎないから。

 ビルの広がりや砂の微細さから何を思えばいいのか。僕たちは何かを考えているようで、大抵何も考えていない。突如として舞い降りた天啓は、言葉にしてみると陳腐すぎて、発明でもアイデアでも何でもない。そんなものが転がっている世界の中で、何に輝きを見出したって良かったはずなのに、多分知りすぎてしまっているから、その様々な情報の中から、輝きを比較することが出来てしまう。だから人々は、いずれ完璧な断面を求めるようになる。どれも均一に平面で、美しく、なおかつ違いのあるようなもの。サプリメントのように機能的な輝きは、人間の安定と更なる分割の地平に付与していく。

 一方で、どうしても割り切れないものも愛せてしまう。それはとてもバツが悪く、僕たちはお酒を飲んだりしながらその気持ちに騙し騙し付き合っていくことしか出来ない。人々が完璧さを求めてしまう一方で、輝きが無いということの輝きはなんて良いんだろう、なんて根拠の無いことを言う。言いながら、一つ一つの感覚を溶かしていくことで、日々の生活を生きることも出来る。その目で、何かを諦めたような目で、意外と何十年も生きれるのかも知れないね。でもそれで良いのか、って言う人もいるんだよね。

 猪突猛進な熱さも、内包的な駄サイクルも、個人的には今はちょっと違うなという感じがしている。突き抜ける思考と、完璧な断面を目指して、何かやってやろうという気分と、それでも自分の甘さを再確認しながら、一つ一つ答え合わせをしていっている、そんな近況です。