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Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

ステップを踏めない臆病な僕と誰かのために

  高橋源一郎さんの新作「丘の上のバカ」を読んだ。

 つい先日、「誰が音楽をタダにした?」を読んで、ポコラヂ上でそれについての議論を聴きながら少しわかった気になった以外では、久々の活字だった。しかも紙の本ではなく、Kindleで読んだ。Kindleの手軽さはとても好きで、紙の本特有の、フィジカル的な厚みと引き換えに、その内部にある言葉に直接触れられるような感覚が良い感じなのだ。

「小説」と「論評」

 僕は高橋先生の小説がとても好きだ。それは、先生は現実を切り分けて小説の世界で表現するということにとても慎重だからで、時には、物語の方を破綻させることで自らの視点を演出することすらあるからである。それはモノの見方という点において非常に素晴らしく、僕もそれが叶うような知性と能力を身に着けていきたいと思っているのだが、一方でそれに対する反論が在るというのも頷ける。例えば、物語を破綻させるということは、その物語に対して敬意を払っていない、という風にも見える。もっとスケールの大きい「小説」そのものの概念を踏みにじることにはならないまでも、破綻してしまった物語は物語として落第であり、エンタメ的な面白さに欠けるどころの話ではない。つまり、先生の小説は、小説という概念そのものを内包しようとするあまり、物語そのものに対するケアが不足しているとみることも出来る。

 そして、今回読んだ「丘の上のバカ」は、小説ではなく、先生が連載していた「朝日新聞論壇時評」の再編集/再掲、及びその時期に執筆していた政治や世界にまつわる論評集として纏められている。「小説」と「論評」の異なるポイントは、小説は理論上「全世界」を書くことが可能であるのに対して、論評は、その形式によって作者そのもののバイアスを内包してしまう、というところにある。一見、小説こそ作者の造形した世界であり、バイアスに満ちているのはそっちの方ではないかとも思うが、少なくとも高橋先生自体は、自分の物語を自分の力のみでコントロールできるような形で構成していない。だから、彼の小説は時折物語が破綻していくし、その破綻する形式の中に読者の解釈を重ね続けることが出来る。世に放たれた段階で、作品はエネルギーを持つ限りそれ自身の世界を増幅させていくのだ。一方で、論評は世界に対する先生の「解釈」そのものである。だから、本人にも政治について今更何かを綴るということに対してあまり興味を持っていなかった、ということを、この書の前作『ぼくらの民主主義なんだぜ』では書いていた。

 僕は先生の綴る言葉が非常に好きだ。先生の綴る言葉には、活字を追う上でどうしても引っかかってしまうような参入障壁がない。先生の大体の文章の書き出しは、こっちが力んだら勢い余って転んでしまうんじゃないか、というくらい平坦で、一切の堅苦しさが無い。時折、事実説明の為に仕方なく硬い人名や事件名、横文字がズラッと並ぶことがあるとちょっと、うっ、ってなってしまうくらいだ。それは、御年65歳の文豪とは思えない、温かな学校の先生のような軽やかさである(実際、氏は明治学院大学で教鞭をとっている)。

 しかし、その優しい眼差しは、政治や人生に於けるどんなに小さな綻びも見逃さない。その温かさと知性をギリギリのバランスで共存させることで、自分より弱いものを傷つけることなく、細く尖った針のような声を立て、その綻びを指摘していくのが、彼のスタイルである。本当に、弱い者の声を掻き消そうとはせず、むしろ、慈悲を持って発された、オバマ元大統領の感動的な「私たちは世界平和に向かっていくべきだ」というスピーチに対して、その「私達」に内包されない存在を嗅ぎ取るかたちで違和感を呈する、そんなことをする。

「民主主義」が(または、この書が)内包する人間の「愚かさ」

 この2作でフォーカスを当てられた「民主主義」というスタイルにも、先生は鋭く優しいまなざしを向けている。つまりこういう風に書いてある。民主主義とは、個が主体となって動く主義であり、人間それぞれが愚かさ、正しくなさを内包している限り、その民主主義の総体は確実な「愚かさ」を帯びているのである。アメリカ大統領選挙という大きなイベントの前後にこの本が登場したこともきっと偶然ではないだろう。きっとその経験を通じ、多くの人々はきっとその愚かさを感じ、同時に人間という存在の底知れなさについても感じることもあっただろうと思う。少なくとも僕はそうだった。

 彼の綴る言葉の凄さは、書かれた内容そのものだけではない。それを読み、思想を噛みしめることによって、得体の知れない温かさが身体中を駆け巡るのを感じる。凄いものを読んだ事実に打ち震え、何らかの感情や自らの思想について再考せざるを得なくなる、そんな状態にさせてくれる。まさに今の僕みたいに。

 何かを表明したくなる。先生の臆病さがとても好きだ。先生はとても優しく、賢いのと同時に、端々に臆病者である自分をちらつかせる場面もある。論評というフィールドに立ち、大体が「言葉」で作られた「政治」を相手に某かの意見を述べることは、自分の立ち位置を表明することに他ならず、自分「以外」の正しさと戦う「ゲーム」の中に身を投ずることでもある、ということを彼は理解している。彼は、自身も身を投じていたかつての学生運動時代の連中を、当時を振り返りながら温かさを持って「バカ」と書く。勿論、彼自身も含めて。様々な運動に身を投じていく中で、彼は、それぞれの運動がただ一つの「正しさ」に向かっていくのではなく、あちらを立てるとこっちが立たないという状況の中で運動を続けていく陣地ゲームでしか無いことに気付く。そのゲームにうんざりした彼は世間から背を向け、作業員として働き、いつしか小説を書くようになったのである。彼がこの本で立ち向かってきた「民主主義」という大テーマは、彼が学生運動時代に投げかけてほしかった「豊かな『正しさ』」についての勇気ある実践である。

 言葉で何かを言う、ということは一方で果てしなく難しいことではあるが、難しいからこそ、自分たちはその「愚かさ」に自覚的になることで、何かを言うことは出来る。意見すること、立ち位置を表明することは、人間である限り常に「愚かさ」と向き合うことである。完璧な意見というものは無く、大体はどのポジションをとるのか、ということでしか無い。しかし、完璧ではないという事に自覚的になり、人の批判を当たり前として受け取ることがもし出来たのならば、意見を言うということが確実に悪いことである、とは言い切れない。勿論、自分なりに考え続け、自分なりに興味を持ち続ける、という前提があってこその話だと思うけれど。

「小説」と「音楽」

 そんなこんなで、素晴らしい書物に触れて、結局音楽のことを考えている。自分の生活、人生のことを考える上で音楽を切り離すことはもはや諦めてしまった。音楽をきっかけに全てを知って、色々なものを失った僕だから。

 音楽は、小説と比較すると「物語」の在/不在に対して寛容である。その代わり、サウンド的な不協和にはより厳しく、快/不快のパラメータに関しては敏感なように感じられる。文学は、語源からして学びを得るものであり、音楽は音を楽しむための媒体であるからだ。

 音楽は、人間の文化の根幹であるダンスに結びつき、身体的に快適なリズムを求める。リズムから逸脱する働きもまた、その根幹のリズムから逃れることは出来ない。小説が、物語の完全な不在に到達するのが難しいのと同等である。

 小説もまた、文法次第でリズムに化けることが出来る。丁寧に定義をしていけば、きっと音楽も奏でることが出来るはずだ(それをシステマティックに作っていた媒体が「楽譜」である)。小説は音楽をある程度内包することが出来る。しかし、音楽には、言葉には絶対変換することのできないもう一つの大事なシステムがある。グルーヴのことである。

「グルーヴ」と「リズム」

 「グルーヴ」は、根源的な「リズム」と同じ定義を持つものでありながら、全く再現性を持つことが出来ないものである。「グルーヴ」には、身体が持つ微妙なズレ、つまりはエラーを内包する機能がある。原始的な音楽を想定する時、人間が太鼓を叩く瞬間、その腕の長さやリーチ、強さなどによって音の速さ、大きさが想定できない形でズレ込む。それが「グルーヴ」という概念の根源的なものである。リズムを言葉に変換する時、完璧なグルーヴをそこに表記することは出来ない。この「グルーヴ」こそが、音楽を音楽独自のものに引き上げるシステムである。

 バンドはライヴにこだわり、生の自分たちを観に来て欲しいと言う。それは、そこにその場限りの「グルーヴ」があって、その「グルーヴ」こそが音楽を表現する上でのポイントであると理解しているからだ。

 一方で、しかし、僕がやるのは打ち込み音楽である。再現性の賜物であるコンピューターミュージックは、そもそも双方向なライヴとは相性が悪い。かと言って、コンピューター上で表現した音楽を身体的に再現することでグルーヴを再発掘するにはやや徒労が過ぎる感がある。そもそも、僕はバンドライヴよりも完成されたCDアルバムを聴くほうが好きだ。

 その拗れ切った矛盾の中で、自分がライヴ性と立ち向かっていくには一体どうしたらいいのか、それを考えていたのが丁度去年の今頃からのことだったように思う。

「音楽」は「空間」によって機能する

 ライヴ活動を休止した数ヶ月間、僕はひたすらお客に徹した。やっぱり音楽が好きなんだな、ということに気付くことにはそんなに時間を必要としなかった。加えて、自分の感触を実感にまで引き上げるあることに気付いた。

 僕は、音楽を聴く時、音楽そのものに対峙するのではなく、リスニング環境やそれ以外の視覚的な環境、身の回りの境遇や、時には製作者の個人的な感覚や環境を踏まえてそれに対峙する。僕は割と早い段階で音楽そのものを純粋に評価することを諦めていたことに、いや、それ自体には気付いていたけれど、それを邪なものとして考えている節があったということに気付いた。純粋に音楽に対峙する行為も、それ以外の環境を含めた「空間」に対峙するのも、同等に尊いのである。そして、自分が人に求めたいのも、自らのパフォーマンスを含めた「空間」を鑑賞してもらうことである、というのに気付いた。

 主観だけれど、音楽は空間に放たれてこそ本領を発揮するのだと思う。脳内で鳴っているいかなる音も、結局スピーカーから空間に放たれたものに敵うものではない。これは現場主義如何の話ではなくて、音楽は、実際にアウトプットされることそのものが大事なのであるということだ。そして、その感覚をなんとなく恥ずべきものだと思っていて、押し込めていた。

 音楽は空間に放たれることで、空間の意義を一気に変えてしまう。リズムが、メロディが、グルーヴが人間を、空間をそういう狂乱へと飛び込ませる。しっかりとした思想が無くとも、快のベクトルに振り切られた音楽が大きい音で鳴っていれば充分なのかもしれない。でも僕は、そこに自らの思想を入れることをどうしても諦めたくなかった。

 コンピューターミュージックに自分の思想をライヴ的に取り入れるのは、正直頭のいいやり方ではないと思っている。用意された音楽と思想にはタイムラグが発生してしまう為に、提供されるのは、いまいちのめり込めない歪な環境になる。だから、アクトはより演劇的になる。ライブセットに仕込まれた感情の起伏を、セッション的に表現していくようなスタイルになった。音楽の再現性とライヴ性のバランスを取った結果が現状になっている。

さいごに

 久々に高橋源一郎先生の文章に触れたことで思い出したのはそんな感じのことである。音楽は曖昧で、空間から逃れることが出来ない故に、言葉以上にその場のフィーリングが重視される。僕が音楽を続けているのは、先生が文壇の上でふと思ったように、その世界の曖昧さというか、立ち位置を限定しなくていいやり方がここでは可能だから、という程度に過ぎないのかもしれない。だけど、僕もまた、自分の意見と立ち位置を表明することに臆病になりすぎてはいけないのだと思う。

 先日、カメラを携えて、僕の地元のある西武多摩川沿線を周った。自分の思想やエモーショナルに対応する風景は結局ここにあるのだろう、と思ったから。正直、このことに自覚的になるまでは降りたことのない駅すらあったし、そもそも何のためにこのローカル線があるのかも全く知らなかった。だけど不思議なことに、そこを歩いているだけで、自分が感じている幽かな「違和感」が次々に浮き彫りになった。今日はもう眠いし長いので、そのことについてはまた。

 

 

 

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

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