Bad Summer Day Blues

「感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟ってヤツが必要だ」

生活を巡る冒険


寺尾紗穂 - たよりないもののために

 この4月から定職についた。そんなに忙しくはなく、そんなに難しいことを求められるわけでもなく、社会に触れていく最初のタームとして、選択肢としてはそこまで悪くないんじゃないかなという気もする。

 一方で知識的欲求というか、目新しいものや最新のもの(流行というより先端技術、カルチャーとか)に対する渇望が半端なくなってきて、良いのか悪いのか、大量に新書をKindleや書店で買い、それらがちょっとずつ食い扶持を圧迫している。今までは考える時間とリソースが大量にあって、散歩をしながらでも色んな事を考えて、文章にできることは文章の形でTwitterなりブログなりに貯蔵、それ以外の脳内を揺蕩うようなイメージも断続的に考え続けることが出来た。自己流で意見を探し出し、それについて考えることで学べることは多かったのだが、今はそれらについて考え続ける時間はそうそう無く、少なくともじっくり考え続けられるような余裕は無くなったように思う。その着想の根本を、本などにアウトソージングしているというのが現状で、知りたいことについての本を調べる技術については検索世代の面目躍如といったところ。

 ふわふわと考えることが癖になっていたせいか、仕事みたいな側面においてはルーチンを体系化できない(するのが苦手)とか、反芻思考に陥りがちだったりとか、理論的な文章というよりスタンスとしてポエジストなところがあったりとかでちょっと苦労する部分はある。むしろその辺りの感覚との付き合い方自体はここ暫くでずっと対策してきたことでもあって、その順応についてはまあ仕方ないか…くらいの気持ちでやっているけれど、そうなってくると今度は「今まではひょっとして物事をちゃんと考えて居なかったのではないか?」という気分になってくる。体系として機能しないふわふわとした思考は、後からシナプスが繋がって何か一つの啓示みたいにはなるかもしれないけれど、それはむしろ身体的欲求という感じがして、シナプスが繋がるのを待つのは時計の部品をバラバラにして投入したプールの水をかき混ぜて時計を組み上げるような行為に近く、それは今までに充分な時間があったからこそ達成された(もしくは達成できるものとして想定された)ものである。

 僕は大学を卒業する時に論文を書かなかった。僕の所属するゼミがとてもその辺りが自由だったからなのだが、多分あの時に論文を書いていれば、自分の思想の客観的正当性みたいなものについてしっかり考えることが出来たような気がして、今となっては少し勿体無いことをしたと思っている。こうやって何でもない文章を書き出すだけで、「結局自分は何のことを理解できているわけでもない」という気持ちと向き合うことが出来るのに、その最たるものである卒論を逃してしまったことは本当に勿体無い。それが本当に必要だったかはわからないし、むしろこの後悔そのものと向き合うことが今は大事という感じもするけれど。

 自分のスタンス等の身体的感覚から出てくる仮定と、それを裏付ける客観的な意見を照らし合わせ、一つのまた新しい論を生み出すことは、一種の知的遊戯であって、もしくは、そうでもしないと自分の立ち位置を確認できない人の為の特権でもあったりするように思う。もし自分の思ったように生きたいのか、客観的に正しい意見を自己に適応させたいだけなら、前者は今を全てとして生き、後者は色々な知見を手当たり次第に蓄えるのが良い。自分が今眼前にある世界に対してどう演算すればいいのかについて、その都度その計算方法から考えるのは骨が折れる。だから、道が分からなくなったら右に行くという自己ルールであるとか、民主的多数決に従うとか、そういう方針を決めることは心身ともにかなり益のあることであり、そのように自己を戯画として受け止めることについては一考する価値があるんじゃないかと思う。例えば、メディアはそれに適応するように出来ている。画面に映る表層がざらつかないように、丁寧にコーティングされているそれを観て、感動することも増えたような気がする。でも、そんな純粋な気持ちを大切にしようと思ってテレビを観ていても、体の奥底が何かを拒否する感覚というか、その表面を触って粗を見つけてしまいたいという欲求が隠せなく存在するのである。やはりそこに求めてしまうのは、完璧な断面の顕在である。

 

mwxn92.hatenablog.jp

 

 僕はこれが(かつて、音楽で名を馳せようと努力していた時代の名残の)職業病なのか、時間がある時に生み出した僕の病理なのか(では、これは完治するものなのか)、それとも、自分自身の性格そのものなのか、皆目検討がつかなくなっている。自分の感覚が環境とともに形成されていくのであれば、僕のそういった病理は薄れていくはずである。これがもし自分自身であるのなら、もうこれ以上、自分の偏屈さにため息をつく必要も無いのかもしれない、と思う。

 適度な水温を求めて魚は水面を泳ぐ。鳥たちも海を渡り、遠い遠い自分の居場所へと帰っていく。寺尾紗穂は、信じる力はへその緒の彼方、僕たちが初めて泳いだ羊水の中にあるという。何者かであった前の、創造の水の中を揺蕩っていた自分自身が何を考えていたのかについて、改めて考える今日此の頃である。